杜のことづて

2011/10/22

杜のことづて

191022 生と死の不思議

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現代では、核家族化に伴って子供たちは身近に死に接することもなく育つ傾向にあります。普段先祖の御霊に手を合わすことなく生活する家庭が多くなっているのも事実でしょう。そして今、死は多くの場合病室や霊園に囲まれて、生と死は空間的に隔離されています。

 以前は、死は病院や霊園に囲まれることもなく、家の中で起こり近くの墓に埋葬されました。もっと昔は現代よりずっと顕であったはずですから、人々は死の意味又生の意味に深く関れたのかもしれません。

 現代でも死を忘れているわけではないのでしょうが、死は遠ざけられ見え難くなっている。しかし死があっての生ですから、現代のこの傾向は、特に子供にとっては、生をも見え難くしてしまうという大きな危険を伴っているのではないでしょうか。

 

 また、時間的に見ると、現代では死亡診断書に死亡時刻が記されて、生と死は明確に区別されています。(脳死の議論に見られるように、結局生と死の境は社会的に決められるのですが。) 昔は、生と死の境界は、現代のように明確なものではなく、曖昧であったらしい。生とも死とも言えない状態が想定されていたのです。その間死に行く人を呼び戻そうと、祭を行いました。現代にも通夜という儀礼がありますが、亡くなられた方を偲ぶ意味が支配的になっています。

 つまり現代、生と死は不連続のように見えるのに対して、昔は生と死の連続性があったのだと思えます。それは、人には生と死を貫いて霊魂があると信じたからでしょう。

  本来、霊魂が無いとする理由もどこにもないのです。むしろ、亡くなった近親者の魂の行方を思うことは、私達の自然な欲求です。その様に、死をも含めた世界を了解しようとすれば、そして死をこの生とは関係ない外部とせず、連続したものと見做すならば、この霊魂の存在は自然な要求になります。(勿論そこに科学的根拠はありません。しかし根拠について言えば、あらゆる事柄の根拠も相対的なものですから。) 人にとって肉親や子供の死後を、それまでの生とは関係なく不連続と考えられるものでしょうか。

 

 私達の祖先は、人だけではなくあらゆるものや現象に霊的な生命があると信じました。見えるものの奥に、その源となる見えない霊性を見ていたとも言えます。これはいわゆるアニミズム (注) ですが、その心性は現代の神道にも息づいています。

 神葬祭(神道のお葬式)では、亡くなられた方の御魂を霊璽(れいじ)という白木の御しるしにお遷しし、その霊璽に鎮まります御魂を中心にお祭りしつつ、御魂の安らかなる事をお祈り申しあげています。さらにこの世に残された人は将来も御魂とともに生きることになります。亡くなられた人の御魂は祖霊の領域に入って行かれるのですが、生ける私達にも御魂が宿っていると考えますので、生と死は連続しています。 

 アニミズム的な心性は、現代の私達の心にも残っているのではないでしょうか。風や雨にも生命を感じたり、花や草等の自然に心を通わせたり、仏壇の前で亡くなった方々と言葉を交わしたり、実に繊細微妙な情緒生活をしています。

 また正月とお盆には多くの人々が故郷に帰り、家族やご先祖と共に過ごしています。故郷が懐かしく落ち着くのは、そこに原風景又生家があり親しい人々がいることだけではなく、先祖の御魂も居られるからではないでしょうか。

 

 私達はこの現代に生きるしかないのですが、生や死についての現代的な考え方や心のあり方を、日本の伝統的な視点から省みることも必要ではないかと思います。

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