杜のことづて

2016/4/27

杜のことづて

280427 苦悩と言葉

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 あの東日本大震災がつい先頃の事と感じていたのに、もう次の大震災が起こってしまいました。無念にもお亡くなりになられた方々には、ご冥福をお祈り申し上げるばかりです。また謂われなくも被災された方々の大きなご苦悩を思いますと、何もできない者として心が痛みます。どうか少しでも心安らぐ日が早くやってきますことをお祈りするばかりです。大きな山崩れや何度か参拝させていただいた立派な阿蘇神社の崩れた楼門の写真等を目にしますと、災害の大きさが実感されます。

 
 社殿向拝に義捐金の募金箱を設けてあります。ご参拝の折には是非お気持ちをお入れいただければとお願い申し上げます。なお締め切りは6月20日までといたします。(日本赤十字社の熊本地震災害支援募金の締め切りは平成29年3月末日に更新されましたが、当社での募金はそのままの期日といたします。)


 このような自然災害にたいする思いは、人災のそれとは明らかに違います。何か非常に複雑で測り難い思いを抱きます。この九州の大震災もそうですが先の東日本大震災の時も非常に強く感じました。

 まず、この災害には謂れがないということです。私たちが納得できる人間的な因果、人間的世界とはかけ離れたところから降りかかる災害だということです。この島国ではどこで大きな自然災害が起こってもおかしくない(たとえ活断層から外れた地域でも、天災は地震に限らないのですから)、 誰が被災してもおかしくない。つまり自分の代わりにあの方々が被災されているとも感じられることです。

 自然=神であった頃の人々は神の怒りと感じたに違いありません。しかしこのことは過去形で片付けられるものではありません。私たちの先祖は、このような天災の烈しさと、普段は享受できる多くの深い恵み、その両極の間で、この風土に生きていくための独特な心の在り方、感じ方、考え方を長い時代をかけて醸成してきたものと思われます。ですから私たちの心には今でも自然=神なる感じ方が無意識の内に流れているはずです。

 さらに私たちの言葉が、本当はもっと深く大きいであろうその苦悩の、上辺だけをなぞっていることが多いと思えることです。言葉を費やしてももちろん、被災された方々のご苦労の大きさにまで届くわけはありません。ことに大きな苦悩は言葉にはならない、言葉を失うものです。考えてみれば、その体験こそが事実なのですが、一般的に言っても、体験という事実そのものは言葉にならないものです。言葉は、言葉の論理に従うもので(詩歌はその限りではありませんが)、体験そのものとは世界が異なります。体験そのものつまり事実は言葉以前のもので、言葉にすれば事実とは離れてしまうのが真実でしょう。
 
 
 一方、私たちの心には昔ながらの言霊の信仰が生きています。良い言葉は良い結果をもたらし、悪い言葉は悪い結果を招く、つまり言葉には現実そのものを変える力があるという考えです。読書や会話等、言葉によって現実の意味が変わることは誰でも経験します。他者の心(魂)のこもった言葉に、特に強い共感を感ずれば、その人は自身の現実の意味のみでなく、本当に現実そのものを変えてゆくこともあると思います。


 大きな自然災害に対して抱く深くやりきれない思いには、以上のような事々が絡み合ってあるからではないかと感じます。被災された方々の苦悩の深みには届かなくとも、多くを語れない状況にある被災者の体験に対して、皆が慎みを以って心をこめて言葉を尽くしてゆくことは、被災者の方々の現実を少しでも良い方向に変える力にもなるでしょうし、被災者又大きな自然災害を常に忘れないために必須のことでしょう。そう諭されていると思うのです。

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