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杜のことづて

2021年3月27日

私達の自然 (13) 雷と天神様

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 昔は、今の社殿内のご本殿は外に顕わに鎮座していました。上の棟札は、享保八年(1723)ご本殿が再建された時のものです。真ん中には、「天満大自在天神」とあり、これが当時の正式名であったことが解ります。この名称は、御本社と仰ぎます北野天満宮の創始の頃からの菅公の神格名(或は神社名)です。全国には菅公を御祭神とする天満宮、天神社、菅原神社等々がほぼ一万二千社ご鎮座され、天神信仰の大きな広がりを物語っています。

 

 当社は江戸期には天神社、明治初期には天満宮と称した時期もありました。明治35(この年菅公一千年祭が行われました。)からは菅原神社と称しています。ただ、以前から地域の人々は「天神様」と親しく呼んできました。

 

 この天神様とはもちろん菅原道真公その人のこと、なのでしょうか。生前の一人の人間としての菅原道真公と日本の神様としての天神様、人と神様は違うのは当たり前ですが、では一人の人間菅公はどのように天神様になられたのでしょうか。

 

 「旅人は湖畔にたたずむ。・・・秋風は冷たく物淋しげに吹き、渚の砂は(我が愁いの心と共に)遠く遥かに眺めやられる。波打ち際にて手に結ぶ水で心を洗い清めるものの、仏道で言う修行程のことまでは求めない。・・・旅行く道はつらいものと言うけれど、実は一年を終えるに当たり、気ままに心を遊ばせようとの心づもりである。・・・人の感興(おもい)は事物に出遇い触れてこそ生ずるものだが、我が心中に秋の悲哀は知るものの、(遺憾ながら)秋の湖水を楽しみつくすことはできない(水を楽しむ智の境地に至っていない)。・・・」

これは菅家文草(かんけぶんそう)「秋湖賦」の通釈抜粋()です。菅公が秋の湖の美しい風景に触れて記した感興です。静かな内省と表出が特徴的です。(※原文は当然漢語漢文ですが、私には幸いの通釈が付されています。)

 

 一方、鎌倉初期の国宝「北野天神縁起絵巻(承久本)」の一場面には、亡き後の菅公の怨霊による宮中清涼殿への落雷で、顔にも炎が走り一瞬にして打たれ倒れた何人もの官人の姿と共に、稲光走る真っ黒な雲の中で目を丸くした恐ろしい形相の雷像が真っ赤に描かれています。この雷像は菅公の御霊(ごりょう)が従える数多の使者(眷属 けんぞく)の内の第三の使者ということです。尚、御霊(ごりょう)とは世の中に祟りをもたらすと信じられた怨念をもつ死霊のことです。

 

 この落差には唖然とします。生前の冷静、知性、誠実を絵に描いたような菅公と、薨去(こうきょ)後、天神様発祥時の雷を従える脅威の天神、この落差の大きさについては不思議にも感じていました。生前の菅公と薨去後の天神様について、およそのことを見てみましょう。

 

 菅公は平安初期の方で、先祖は天皇の御陵(みささぎ)の御造営等に携わった土師(はじ)氏、曾祖父の代から菅原氏へ改名が許されました。漢籍等の学問に秀でた家柄で、菅公は五歳の時和歌を十一歳の時漢詩をつくられています。祖父そして父上と同様文章博士(もんじょうはかせ)と成り、飛び抜けた知性をもって時の宇多天皇に誠実正直一筋に仕え、信頼、寵愛されつつ右大臣にまで栄進しました。菅公も宇多天皇の、身に余る信頼に対し、周囲の妬みを心配していたようです。そして次の醍醐天皇の御代になると、宮中の主勢力だった藤原氏等は菅公の存在を疎み、天皇に菅公が権力の独り占めを企む「専権の心有り」との無実の讒言(ざんげん)をして、太宰権帥(だざいごんのそち)として九州太宰府に左遷したのです。

 

 「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」等々悲しみの歌を残して~但し、己の潔白や無念は表しても恨みや怨念を表す歌などはありません~、菅公は失意と窮迫の内に、左遷から二年後に太宰府で薨去されました。五十九才のご生涯でした。太宰府ではその二年後に、太宰府天満宮の大本となる廟(びょう)が設けられました。

 

 菅公亡き後、世には不穏な事が多発します。京で雷雨が続き、次には疫病、旱害等が続いて、京の人々の間に菅公の祟りが語られるようになりました。官人達には菅公に対する後ろめたさもあったはずです。また当時は既に、怨念をもって亡くなった人の死霊が祟りを起こすという御霊(ごりょう)信仰が広まっていましたし、落雷も御霊の祟りと信じられていました。そのような世情を背景に、菅公の怨霊は雷神という脅威的な自然神に強く結ばれるのです。

 

 讒言の首謀者とされる左大臣藤原時平は三十九才で病死、そして二十年後に若き皇太子が薨去、更にその七年後には宮中への落雷で何人もの官人が亡くなったことが契機となり、菅公の御霊の特別な霊威を天に満つる脅威として誰もが認めることとなりました。

 

 菅公の御霊は天満大自在天神として、京の北野に祀られて(北野天満宮)、御霊又怨霊は和め鎮められて行きました。官位は右大臣に戻され神位も正二位が贈られています。勿論巷には生前のご威徳への省察もあったはずです。その半世紀後には正一位、太政大臣(しょういちい、だじょうだいじん)の最高の神位、官位が贈られて、菅公の御霊は国家の守護神にまで高められたのです。尚、この「天神」様は、菅公の御霊に以前からの天候を司る天神(雷神)、神話上の天つ神としての天神等々が習合して成った神格ということです。

 

 雷が落ちないよう祈る時の「くわばら、くわばら」というまじない言葉の所以は、菅公亡き後不気味に京に落雷が多くなっても、菅公の土地だった桑原にだけは雷が落ちなかったからだそうです。そのような様々な挿話も多くの人々の意識に天神様を豊かに登場させてきたのでしょう。

 

 

 一人の人間が神と成り、国家神とまで認められ、日本人の信仰の大きな部分を成す天神信仰にまで発展してきました。この日本では古来「ひと」とは「霊=ひ」+「処=と」という意味を持ちます。人の霊は神から授けられるもので、死後も霊はこの世の子孫に祀られつつ、先祖として子孫達を守り恵むという神道の考え方は今も続いています。人と神は連続性を持っているのです。だからこそ菅公の御霊も大きな神様になり得たものと、先ずは言えると思います。

 

 ただ、大きな信仰にまで発展する日本の大神と成るには、菅公の生前のご威徳のみでは考えられません。実際は、その超のつく知性と徳高い誠実な生き様だけでも大神と崇敬するに値するほどの巨星だったと思われますが、それだけでは多くの人々の心深くに行き渡り、信仰として大きく拡がることはかなわなかったでしょう。人々に恐ろしい怨霊として、それも脅威的雷神に結ばれて立ち現れたことが大きく決定的な理由ではないでしょうか。

 

 人がこの自然の中で生き始めた遠い遠い昔から雷の脅威はあったはずです。落雷に至っては人が見える形で経験する最大級の脅威でしょう。雷は古事記の黄泉(よみ)の国の神話でも、イザナミの死体に沢山の雷が張り付いていたり、それを見てしまったイザナギが逃げる場面では追いかける雷等が恐ろしく語られています。恐ろしいことから鬼の形相に形象化されてきました。

 

 しかし一方では神鳴りでもあり、落雷のことを神立ち(カンダチ)とも言い、イナズマは「稲妻」であり、イナビカリも「稲光」と表され、稲作農業との関連が示されています。雷神は脅威や災害をもたらす厄神であったと同時に、稲作に慈雨をもたらす役神、農業の守護神でもあります。雷も元々両義的な自然神なのです。水の神、火の神、風の神、地の神、山の神・・私達の生活に関わる自然神は、多くの場合、恵みをもたらすと共に荒ぶる脅威も伴うのが特徴的です。

 

 菅公の御霊が強力な雷という自然神を操る天神として立ち現れた事は、自然を司る神々と同様な性格を身にまとったことを意味します。菅公は亡き後雷神と結ばれることで、一方では測り知れないほど恐ろしい「怨霊+雷の脅威」、他方では測り知れないほど有り難い「威徳+神鳴りの慈雨」という振幅の大きな両義的性格を持つに至ったと考えられます。この脅威と恵みという両義性は私達にとっての自然の特徴に違いありません。この自然性が天神様の広がりと深さの確かな土台になったのではないかと思えます。

 

 雷という太古からの自然が、菅公と天神様を結ぶ大きな役割を果たしたように思えます。そして初めに記しました菅公の生前と薨去後の大きな落差は、後から見れば、人間の菅公が天神様という御神徳高い神様と成られるのに、必要不可欠な事柄であったと言えるかもしれません。

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