杜のことづて
菅原神社のお祭りと言えば、以前は奉納角力(すもう)が盛んでした。明治二十九年の資料では、当時の惣代人の連署のもと角力興行免税願が東京府に出されています。古老の話によると、遠近の力自慢だけでなく、関取を招くこともあって、ドラム缶の風呂を沸かしたり食事を用意したり、地域の人々は厚くもてなしたそうです。
御祭神菅公の先祖は土師(はじ)氏という天皇の陵墓の造営に携わる氏族でした。そしてその祖先は野見宿禰(のみのすくね)とされます。垂仁天皇に仕えた出雲出身の豪族で、日本書紀によれば、当時皇族の薨去に際しての慣習だった殉死に代えて、埴輪を提案し造ったとされます。土師氏の祖先とされる所以でしょう。
野見宿禰が都に呼ばれたきっかけは、当時都で一番の強者に勝るものはいないかと、出雲から招かれたのでした。そして角力を取り、蹴り合って相手の腰骨を折り殺すほどの強者で、後には角力の祖と言われるようになりました。
当神社の角力がこの伝説に基づいたものかは不明ですが、御祭神の祖先が角力の祖という由緒は、角力興行の隆盛を蔭で支えていたと思われます。
ただ残念ながら昭和中期前には、祭りでの奉納角力は廃れてしまいました。代わって暫くは地域の芸達者達の芝居や踊が奉納されました。当時の写真を見ますと、祭りが地域の人々共同の喜びだったことが覗えます。
地域の共同性が失われてゆくと共に、多くの祭りでイベント色が強くなっている昨今、当神社では祭りの奉納行事を模索してきました。これからの時代を担ってゆく子供達に、本来の祭りを継承してゆきたいという思いのもと、大人による歌や踊りまた芸能の奉納と共に、子供達による絵灯篭の奉納や神楽舞の奉奏にも注力しています。今年五月十七日の愛宕祭では、初めての試みとして子供神輿の渡御を行います。



